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折原恵のニューヨーク写真日記 - New York Photo Diary by Kei Orihara

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2013年 08月 12日

サニーサイド の夏  Summer in Sunnyside/不自由な日本語1

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ルーマ二ア人とおぼしき老婦人


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スペイン語で話したり英語で話したり。コーヒーショップの前のベンチで。


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サニーサイドガーデンの一角


<不自由な日本語 1>

夫の甥の結婚式にワシントン州に行ってきた。 
式場はシアトル沖に点在する島の中のリゾートで、皆のんびりと休暇をとってやって来た。
海を背景にセレモニーを外で無宗教でやるのが流行っているようだ。

本人たちはコロラドに住んでいるので、長野に住んでいる人たちが瀬戸内海の小島の別荘地でウェディングをやるって感じだろうか。友達も含め、ほとんどの人たちが飛行機に乗リフェリーに乗り、やって来るわけだ。そのせいか、行事は2日にわたっていて、前日は家族が泊まっているホテルの庭でライヴコンサート付きのパーティ、翌日は式場のまわりの庭で長いパーティタイムがあった。総勢90名くらい。

で、次から次に紹介されたり、自己紹介し合ったり。
久しぶりの人も初めて紹介された人も、頬を右左にくっつけて挨拶をする。
そして力一杯抱きしめて、再会を喜ぶ。親戚の場合、これは良いなあと思う。お義父さんが生きていた頃、会うたびに心から抱きしめてくれた。
よくも息子と一緒になってくれた、という感謝の気持ちも、私を気に入ってくれているという気持ちも、十分伝わった。
身体を寄せるのは気持ちの伝達にとても良い。日本人は親子の間でさえ身体を触れることがない。儒教のせいだ。

そして英語というのは社交の場では、とくに良いものだなあと思う。
十代や二十代の若い子が、まったく臆せず五十代や六十代の大人と、完全に平等な態度で話をしている。
敬語がないということは、どんなにか自由なことかと思う。子供に対しても、年配者に対しても、話す言葉は最初から最後まで同じ言葉だ。
これは特に、子供の自由と自立を促す。

若者たちはいつもの仲間とのスラング続発の喋りかたではないにしても、年上だからって身構えたリ、返事が少なめになったりしない。
敬語がないことは社交を容易にしていると思う。もちろん、幼い頃から社会性を親が訓練するアメリカだから、言葉の問題ではないかもしれない。
しかし、若い日本人にとっては容易でないはず。

甥、姪にとって、こちらはおじさん、おばさん。日本でこの関係は、まず言葉で自由を奪われる。身内で近い関係にも関わらず、年上なのでタメ口をきくことをためらってしまう。
これは言葉の問題だけでなく、身分制度の問題もあるだろう。子供が自分を年少者として位置付け、年上の人間に対して距離をとる、という儒教的な身分観である。
たしかに私が子どものころ、遠くの地方に住む母の兄つまり伯父に、、どのように話していいかわからず、デスマス調か友達調か迷い、とても不自由を感じたことを覚えている。子供の頃、友達同士の喋りかたをしていた従姉妹と、おとなになって疎遠になった今では、いつのまにかデスマス調になっている。こういう不自由感が日本語の嫌いなところだ。
私は、できることなら敬語は減らす方向に向かってほしいと思う。

ところが、TV を見ていると、「XXさんのご本を読ませていただきましたが」と、そこにいない著者にまで敬語を使っている。「〜させていただきます」の連発である。
出版社にフリーのライターがファックスを送るのに、「計3枚Faxを送ります」ではまずいそうで「計3枚Faxを送らせていただきます」と言わなければならないらしい。本当にばかばかしい。
どっちが身分的に高いか、暗に計っているのだ。身分制が少しずつ復活しているのかもしれない。
過剰な敬語は、この時代の日本の向かっている方向とどこか重なりあっているようで、いい気持ちがしない。

by keiorihara | 2013-08-12 17:51 | 日本語と英語


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