カテゴリ:日本語と英語( 6 )


2015年 02月 06日

Love という動詞   <不自由な日本語 6>

a0215638_12342024.jpg
Greenpoint, Brooklyn


a0215638_12325014.jpg
Greenpoint, Brooklyn


a0215638_12322992.jpg
Greenpoint, Brooklyn


a0215638_12321013.jpg
Greenpoint, Brooklyn


a0215638_12345079.jpg
Greenpoint, Brooklyn



日本でも、不気味な時代が始まろうとしている。
日本語の探究も急がねばならない。

さて、<不自由な日本語 6 >

日本語には< I  >とか< You > とかの人称代名詞がないという話を前に書いたけれども、きょうは最も基本的な、動詞の話をしたいと思う。
これは、英語をまともに学んだ人には、かなりバカバカしい話かもしれない。
しかし、英語がまともにできない状態で、とつぜん日常が英語という世界に入って、ああ、英語とはそういうものなのだと、知識ではなく実感をもってわかった英語の話のひとつである。

英語の基本は主語、述語(動詞)、目的語だけれど、それを ”I love you.”という文で説明してみたい。
日本語では愛の告白に、<わたしは>いう言葉は要らない。<あなたを>もいらない。なんて簡単なのだろう。
なのに、どうして言いにくいのだろうか。
英語は、 I  も You も欠けていては文とし成立しないし、意味そのものが成り立たなく出来ている。
まったく、逃れようのない論理性だ。
英語の” I  love you.” は、必要最小限でリズミカル、しかし、きっちりとした文法をもっている。

そして重要なのは、動詞というものの性格のちがいである。
日本語の場合は、愛している、とか、好き、といった言葉は、その時の思いの”状態”を語っていると思う。惚れているとか愛しているという心の状態、好きだという意識、つまり止まっている状態の表現だ。
しかし英語の love というのは、動詞という名のとおり、動きをあらわす。
それは今の心の状態も表しているけれど、それよりも、あなたを愛す、これからも愛していく、という進行形的な動きを表している。

英語の動詞には、この動きがある。動詞は現在から未来へと進行していく。
I love you の love は愛するという動き。今、心が荒れていても、愛してるのかどうかわからないと思っても、相手を大事にしたいと思ったら、I love you.といえる。
つきつめれば、これからあなたをずっと愛していきたい、という気持ち、愛するという覚悟をあらわす言葉といって良い。

日本語では、口げんかしたあとに、愛してるよ、とはなかなか言えないものだ。
ワサワサした気持ちが残っていると、たとえ仲直りしても、すぐには言えないと思ってしまう。
こんな気持で自分はこの人を本当に愛しているかという疑問がわいていたりする。
今の心の状態が穏やかじゃないと言えない。
あるいは、すごくセンチメンタルに流されているとか、性欲がみなぎっている場合は、それどころではなく口走ってしまうかもしれないが、まあこの話の場合は、峠を越した夫婦の話として読んでもらうとわかりやすい。

だから英語人は、夫婦げんかだけでなく、親子げんかのあとでも、兄弟げんかのあとでも、ときには友達同士でも、派手なケンカをしては、えッ? さっきまであんなに激しくののしりあっていたのに、とあきれるほど真剣に抱き合って " I  love You”と言い合ったりする。
これはまさに、愛する、という<動詞>のなせる技だと思う。

だから、毎日彼らはこの言葉を交わし合うのだ。
毎日の、それを自覚する運動となっているからだ。それこそがこの動詞 love の本義であり魔術。
アメリカ人(欧米人と言ってもいいと思うが、よくわからない)の夫婦が、いつまでも家庭のなかで、子どもの親としてだけではなく、夫婦として、女と男として、その関係をすたれさせず、だれさせずにいるのは、行動的な面で努力していることも大きいけれど、英語の魔術的な効用というのもあるのだと思う。
[PR]

by keiorihara | 2015-02-06 17:07 | 日本語と英語 | Comments(0)
2015年 01月 23日

不自由な日本語 5 ー You と あなた

a0215638_15282473.jpg
Green Point, Brooklyn


<不自由な日本語 5>

英語の<you>はとても便利なことばだ。
ふしぎなことに、日本語の「あなた」という言葉は、優しい音色をもっているのに年上の人にたいして使えない。

目上のひとで相手をなんと呼ぶかわからないときに、つまり名前で呼ぶか役職、役割名で呼ぶかなど戸惑うときに、「あなた」が使えたらどんなに便利かと思う。
あるいは、話しながら相手の名前を思い出せないときも、とても困る。
同等と目下の相手には、あなた、あんた、君、お前、貴様、てめえ、、、といろいろあるのに、目上の人を呼ぶ代名詞はない。

日本語には < I >と < You >という人称代名詞がない。
どこにいても、誰と話しても、”個人としてのわたし”である<I > 、そして、どこにいても誰と話しても、”相手としてのあなた”である<You>という、とても便利な代名詞がない。

英語の I やYouは、それは代名詞なのでいつでも一つ。
たった一つであるがゆえに I とYouはいつでも対等である。少なくとも、言語の上ではまったく対等だ。
どんな相手であれ、どんな場であれ、I とYouで会話ができる。
相手が何者であろうが、どんな年齢の人であろうが、どういう関係であろうが、「わたし」やら「あたし」やら「ぼく」やら「おれ」が語るときはいつでも<I>であり、話す<相手>はいつでも<You>である。

日本語ではふつう、よほど許し合う関係でないかぎり、年上の人に”あなたは、、、”というふうに言えない。
しかし反対に、親しみがなく、ごく公的な社会関係のとき(たとえば裁判とか、議会とか)には使えるし、という複雑さもある。
親は親しい間柄であるが、子どもは親にやはり”あなた”とはいえない。
(もちろん意識的に家族関係をつくろうとして、別の言葉のルールを作っている家族もいるので、それは除外して、これから語っていくのはごく一般的な場合である)
”あなた”の代わりに、役割や職業上の役職名や個人名をいちいち入れなければならない。
お母さんは、、とか、おじさんは、、とか、社長は、、とか、村上さんは、、とか。
この関係で”あなた”を使うときは、けんか腰で相手をとがめるとき、だったりする。
だから、役割名や個人名がわからないときは、ほんとうに困る。
”お宅”という言葉はあるが、やはりまた、目上の人に使うのはなかなか難しい。

とくに子どもの年齢だと、あらゆることが難しい。
例えば、大人の女性と子どものあなたが会話している場面。
「誰と一緒に行きたいの?」あるいは「誰のことを話してるの?」何でもいい、そう聞かれて、Youと答えれれば簡単だけど、日本人の子どもは困ってしまう。
子どものあなたは、相手の女性の名前を知らない。所属もよくわからない。
おばさん、というには、そんなタイプじゃないし、しっくりこない。お姉さん、というには歳がいっている感じで、ちょっとちがう。
しかし、あなた、という言葉は子どもの辞書にはない。
Youのような便利な言葉がないのだ。
そこで、子どもはどうしようかと、口をつぐんでしまう。または、この人、と指差しをする、、、まるで幼児のような態度である。
日本の子どもや青少年がみな子どもっぽく見えるのは、こんなことばの問題もあるように思う。
[PR]

by keiorihara | 2015-01-23 17:51 | 日本語と英語 | Comments(0)
2015年 01月 15日

不自由な日本語 4

a0215638_843643.jpg
Green Point, Brooklyn



クイーンズの自分の家の周辺から写真を撮り始め、勝手気ままに思うことを書いてきたが、写真と文章をどうじに掲載していくのはいろいろと問題を抱えることになる。
まず、写真を選ぶときに、話の書ける写真、あるいは物語れる写真のシークエンス、を選ぶ傾向ができる。
選んだ写真にキャプションを書くのは楽で、かつ楽しいことなので、それに甘んじて、その傾向をつづけてしまう。
ニューヨークはどこを歩いても絵になるし、発見があるので、その行為は無限につづけることができるだろう。
読者もそれなりに楽しんでくれているように思う。

しかし、じつは、写真というのは本質的に、言葉で説明できないものが多いのだ。
そういう写真が山のようにたまっていることに気づいて、その処置にほとほと困っている。
そしてまた一方、自分の書きたいこと、伝えたいこと、というのは、物語やすい写真のあとではなかなか始められない。
しかし、わたしには書いていきたいテーマがいくつかある。それがなかなか始められないでいる。
写真のストックをあちこち眺めては逡巡、そんな新年このかたであった、という、更新が遅れた言い訳である。

日本語については <不自由な日本語>と題してこれまで3回、主に、差別語である日本語という点で書いたけれど(カテゴリ=「日本語と英語」参照)、つづきを書いていきたいと思う。
日本語の問題にこだわるのは、ひとつはわたしはアメリカ人と結婚して10年たつが、コミュニケーションの仕方の問題で日々文化摩擦を繰り返していて、日本語について考えざるをえない状況に直面しているからだ。
これが、うんと若いうちに英語をマスターしていれば、英語を話す時と日本語を話すときは、すっかり人格を変えて(という言い方が酷ならば、完全に頭を切り替えて)話すということを自然にやれる。つまり、英語が”身についている”ということだ。
しかしわたしのように、日本人との結婚生活も経験し、仕事を通して日本で長いあいだ社会生活をし、年をとってからアメリカに移住し、そのうえで英語を学びながら英語の生活を始めるというのはなかなかすんなりいくものではなく、首を傾げながら、ちがいを理解して、ひとつひとつ受け入れていく類のこととになる。
だから、若い時に英語を身につけて、苦もなく英語を喋っている人なら意識しないようなことを意識することとなる。
日本人は、自分たちのことを誤解しているのではないかと。

もうひとつは、日本でいわれる、国際化ということを考えるとき、つまり、なぜ日本はいつまでも国際化できないのか、と考えるとき、わたしは、日本語の問題が関係しているのではないかと思わないではいられないのだ。そのことまで到達できるかどうかわからないが、少しずつ書いていきたいと思う。
[PR]

by keiorihara | 2015-01-15 15:43 | 日本語と英語 | Comments(0)
2013年 09月 14日

雅子妃のカウンセリング <不自由な日本語3 >

a0215638_1628262.jpg
Broadway, Brooklyn



<不自由な日本語3>

移民ビザで入国し、ジョージア州アセンズという大学町に住みはじめて間もなくの頃だから2004年か5年のことだと思う。
夫の友達で弁護士のケンは、毎週末うちに来てポーチでビールを飲みながら、いっしょに長いディナータイムを楽しむ良い友達だった。アメリカから一歩も出ないのに、新聞、雑誌を隅々まで読んで、世界の細々としたことを知り尽くしている人である。

そのケンがある日、私に聞きたいんだけど、と言ってこんな話をした。
「昨日のニューヨークタイムズの論説なんだけど。Princes Masako が鬱病で苦しんでいて、静養のため実家の別荘に行ったとき、母親に、医者とは英語で話したい、英語を話す精神科医を見つけてくれないか、と頼んだそうだ。でも宮内庁がそれを受け入れず、プリンセスマサコは自分の精神科医さえ自由に選べない境遇にいる。これでは病気を治癒するのは難しいだろう、って話なんだけど」
「えっ? それは、アメリカ人の医者ってこと?」
「いや、ナニ人ということではなくて、“英語で”カウンセラーと話したいと、そう書いてあったけど。で、僕の疑問は、日本生まれの日本人であるマサコが、なぜ英語でカウンセリングを受けたいのかってことなんだけど」
その記事は、なぜということにはまったく触れていなかったそうだ。

まず私が答えたのは、雅子さんは高校(公立)と大学(ハーヴァード)の7年間をアメリカで過ごした人。人間のもっともめざましい精神形成をなす青年期を英語で過ごしたのだ。自分のことをきちんと論理的に話そうとすると、英語のほうが話しやすいのではないだろうか。
それと、考えられるのは、皇太子妃は未来の皇后という最高位につく人。日本語ではドクターといえども、最高の敬語を使わなくてはならないだろう。自分の苦しい胸の内を話したいし、突破口を開きたいのに、宮内庁の医者ではイコールな人間として話ができないということを、すでに実感しているのではないか、と。
言葉が、身分ということから自由になれない。それが日本語だから。

で、ここまで書いて、ニューヨークタイムズの例の記事を確認したくてウェブサイトで探してみた。残念ながらその記事は見つからなかったが、しかしもっと、なぜの答えに近いものを読むことができた。

日本のプリンセスマサコが鬱病と適応障害の診断を受けて、抗鬱剤とカウンセリングの治療を受けている。しかし、と日本の鬱病の現状の話が展開される。すごく長い、健康欄の鬱病に関する記事の冒頭なのだ。

日本ではDepression(鬱病) という言葉が病名として一般に流布したのはここ10年ぐらいのことで、だが、それが悪い、隠さなければならない病気から表に出始めると、こんどはまるでブームのように鬱という言葉は使われるようになった、云々。
日本にはKiという言葉があって、気が滅入る、気が塞ぐというように(もの凄くたくさんのKiの言葉が列挙されて日本語から来る発想のちがいの話)、云々。
つまり日本では鬱病は病気として扱われてこなかったために、それへの研究、治療の歴史が浅く、多くの精神科医は患者に症状を聞き、抗鬱剤を処方し、次の回には薬は効いたかと尋ね、変化がなければ薬の分量を増やし、ほかの薬を試し、それが日本のほとんどの精神科医のやっていることのすべてであり、西欧で長く施されている言語によるセラピーはほとんどないと言ってよい、云々。
抗鬱剤の増量、習慣化が病気をさらに悪くし、慢性化して治療を難しくしていることについても、長々と続く。

もっと専門的にいろいろ書いてあるのだが、このことから考えると、もしかすると雅子妃はそれに気づいて(アメリカに住んだ人が精神科医と心理療法のことを知らないはずはないと思う)、宮内庁指定の医師のやり方ではなく、言語によるセラピーを受けたがっていたのかもしれない。
日本人のなかにも何人かは優秀な言語によるセラピストはいると思う。
しかし、どういう医者であっても、日本語という日常語で、皇室の中の自分の立場の話などましてや家族の話などできないのかもしれない。
抽象概念をもった英語だったら、いや直接的に事実を積み重ねて話せる英語だったら、余計なことを考えずにダイレクトに話せる英語だったら、いろんな意味で英語が話しやすいとというのは英語が下手な私にでも想像できる。
この<不自由な日本語3>は、日本語ということを、この雅子妃のエピソードで話そうと思って書き始めたが、どうやら別の問題のほうが大きそうだ。つまり、

妻が、嫁ぎ先である自分の家や職場で「人格を否定されている」ことを知り認めているのに、どうにも助けられない夫。
精神的な苦しみ、あるいは大きなストレスからくる病状を治癒する、あるいは軽減するのに、こういう治療を受けたい(多分それが一番必要なこと)と当の本人が言っているのに、それすら受け入れられない、籠の鳥であるがんじがらめの夫。
あるいはその周囲、機構、システム、空気。
(記者会見で、「セカンドオピニオンが必要と思われませんか」という記者の質問に、「いえ、宮内庁の担当医師がよくやってくれているので、その必要はありません」と、10年も同じ病気が治らないのに、他の医者を尋ねない患者がこの世にいるだろうかと思える非常識を平然と延べる皇太子のビデオを見たことがある)。 

この家族が日本国民のシンボルなのだ。見えないものにがんじがらめになっている。
日本というシステムは、人の心の問題を、人の命の問題を、ひとりひとりの幸福の問題を、こんなにもおざなりにしたまま、形ばかりをとりつくろっている。

「英語でカウンセリングを受けたい」これがなぜ、否定されなければならないのか。どんな理由だろうか。
今度はわたしが聞きたい。

(これを書きながらしきりに思い出したのが、英国王ジョージ6世の吃音の治癒に立ち向かう国王夫婦と市井の言語療法士の史実をもとにしたドラマThe King's Speach「英国王のスピーチ」という映画。そうなのか、王室であっても人格、個人というのはこのように尊重されているのか、と日本の皇室を思い出しながら見ていた。よくできた映画です。ジョージ6世の妻エリザベス妃が、大竹しのぶそっくりなのがご愛嬌)
[PR]

by keiorihara | 2013-09-14 07:09 | 日本語と英語 | Comments(4)
2013年 08月 19日

サニーサイドからエンパイアステイトビルを望む / 不自由な日本語2

a0215638_13354623.jpg

サニーサイドからエンパイアステイトビルを望む The Empire State Building, as viewed from Sunnyside

a0215638_16242043.jpg


<不自由な日本語  2>

ニューヨークに住み始めてまもなくのころ、ネットでおもしろい英語クラスを見つけて通った。
一人のベテラン英語教師が、NY市に申請して、市から給料の支払いを受けて成立させた独立無料クラス。
生徒は当然外国人ばかり常時20人くらい。教室はNPOが運営している教育プログラムの建物の一室を借りている。中庭を挟んでいるので風通しもよく、静かで抜群の環境である。
教師というのがなかなかのインテリで、社会問題、国際関係などからのトピックをかなり深く突っ込んで語り、そのあと、" How do you think?  Discuss! " と投げかける。生徒たちは近くに座った数人でグループを作り、その話題について議論をする。それがパターン。

その中に若い日本人の女性がいて、そのひととは頻繁に同じグループになり、いろんなことを英語で話した。
商社マンの夫の転勤で、彼女は会社をやめて一緒にニューヨークに来ていた。クラスの中では英語を話すように言われていたし、私たちもそれをよしとしていたので、休憩時間も、クラスの帰りに二人きりになっても英語で通していた。それはけっこう楽しい語らいだった。日本人同士だから、拙い英語で話していてもどんなニュアンスも伝わってしまうのだ。
社会問題にとどまらず、たとえば人間関係の心理的な話、夫婦関係や会社関係の話を英語ですると、とてもわかりやすく、英語自体が持つ論理力に助けられて、元商社勤めの若い人と、ほとんど同じレベルで人間関係、日本社会の話などができたのだ。つまり、とても頭の良い若者だった。

で、数ヶ月経ったある日の帰り道、日本の話をしていて、これは日本語で話したほうが早いと感じて、どちらからともなく自然に日本語に変換した。
ところが、そのとたんに若い日本人のクラスメートは、わたしにデスマス調で話し始めたのだ。
私はすごくショックだった。直前まで友達同士の会話をしていたはずのクラスメートから、突然、距離をとられたと感じた。

「そうよね、それって何々だよね」「ほんと、私もそう思う。それはこういうことじゃない?」という感じで、まったく平等な友達同士の会話をしていた、と思っていた(思い込んでいた)私は、日本語になったとたんに相手から「そうですよね。それは何々だからだと思うんですけど」という受け答えをされたのだ。
わたしはいつも通りの会話をしているのに、相手は私をかなり年上の人と見定め、デスマス調だけでなく敬語まで使って話されたのだ。このときの、あああ、何ということ、、、! という、夢から現実に突き落とされたような感じ、これは、経験したものでないとわからない感覚かもしれない。
私にとっては、まったく予期しない事件だった。
すごく寂しく感じた。私たちは友達だったのではないか。友達のように話してくれないと寂しくなっちゃう。私は彼女にそのことを正直に伝えた。
彼女は答えた。「いえ、わたしにとっては自然な日本語なんです。だって、ケイさんは年長者なんですから。そんなに意識する必要はないのじゃないかと思いますけど」と。確かに、それは正しいのだけど、、、

私は日本語でこうやって書いているし、「ニューヨーク写真日記」のブログを書き始めてから、いつも日本語が頭から離れなくなった。
日本語は脱力して話せる便利なよくできた言語だと思っている。日本語のいい加減さが好き、とも言える。当たり前である。日本語は私の母語であり母国語なのだから。それでもなお、日本語の嫌いなポイントは大きい。
それは、日本語が差別言語であること。

日本人同士が、いざ会話を始めるときには、瞬間的にというか無意識の領域かもしれないが、常に上下関係で話し方を変える。つまり、日本語の中には、つねに上下関係というものがある。
年上年下、上司部下、教師や聖職者や特別な役職の人、仕事上の関係とそうでない場合、近親の度合い、商売人と客、クライアントと請負い業者、、、昔は夫と妻、姑と嫁、と、際限なく、どちらが上かで話し方が変わる。その特別筆頭に皇室があるが。

私は相当に敬語が苦手で、敬語を使わずにすむなら、そうしてしまう礼儀知らずの人間である。
そういう私も、親しくない、あるいは社会的関係の人には年齢を問わずデスマス調を使うし、5歳よりもっと上の人と話す時は、どんなにいろんなことを話せる友情を感じる人でも、どうしても敬語になっている。
でも、時々、この人とはただ自由な友達関係なのだからデスマス調じゃないほうがいいなあ、と感じることがある。
でも、そう思っているのに自由になれない自分がいる。それは半分は自分のせいだけど、半分は日本語自体のせいである。
[PR]

by keiorihara | 2013-08-19 23:23 | 日本語と英語 | Comments(4)
2013年 08月 12日

サニーサイド の夏  Summer in Sunnyside/不自由な日本語1

a0215638_13443748.jpg
ルーマ二ア人とおぼしき老婦人


a0215638_134472.jpg
スペイン語で話したり英語で話したり。コーヒーショップの前のベンチで。


a0215638_13433377.jpg
サニーサイドガーデンの一角


<不自由な日本語 1>

夫の甥の結婚式にワシントン州に行ってきた。 
式場はシアトル沖に点在する島の中のリゾートで、皆のんびりと休暇をとってやって来た。
海を背景にセレモニーを外で無宗教でやるのが流行っているようだ。

本人たちはコロラドに住んでいるので、長野に住んでいる人たちが瀬戸内海の小島の別荘地でウェディングをやるって感じだろうか。友達も含め、ほとんどの人たちが飛行機に乗リフェリーに乗り、やって来るわけだ。そのせいか、行事は2日にわたっていて、前日は家族が泊まっているホテルの庭でライヴコンサート付きのパーティ、翌日は式場のまわりの庭で長いパーティタイムがあった。総勢90名くらい。

で、次から次に紹介されたり、自己紹介し合ったり。
久しぶりの人も初めて紹介された人も、頬を右左にくっつけて挨拶をする。
そして力一杯抱きしめて、再会を喜ぶ。親戚の場合、これは良いなあと思う。お義父さんが生きていた頃、会うたびに心から抱きしめてくれた。
よくも息子と一緒になってくれた、という感謝の気持ちも、私を気に入ってくれているという気持ちも、十分伝わった。
身体を寄せるのは気持ちの伝達にとても良い。日本人は親子の間でさえ身体を触れることがない。儒教のせいだ。

そして英語というのは社交の場では、とくに良いものだなあと思う。
十代や二十代の若い子が、まったく臆せず五十代や六十代の大人と、完全に平等な態度で話をしている。
敬語がないということは、どんなにか自由なことかと思う。子供に対しても、年配者に対しても、話す言葉は最初から最後まで同じ言葉だ。
これは特に、子供の自由と自立を促す。

若者たちはいつもの仲間とのスラング続発の喋りかたではないにしても、年上だからって身構えたリ、返事が少なめになったりしない。
敬語がないことは社交を容易にしていると思う。もちろん、幼い頃から社会性を親が訓練するアメリカだから、言葉の問題ではないかもしれない。
しかし、若い日本人にとっては容易でないはず。

甥、姪にとって、こちらはおじさん、おばさん。日本でこの関係は、まず言葉で自由を奪われる。身内で近い関係にも関わらず、年上なのでタメ口をきくことをためらってしまう。
これは言葉の問題だけでなく、身分制度の問題もあるだろう。子供が自分を年少者として位置付け、年上の人間に対して距離をとる、という儒教的な身分観である。
たしかに私が子どものころ、遠くの地方に住む母の兄つまり伯父に、、どのように話していいかわからず、デスマス調か友達調か迷い、とても不自由を感じたことを覚えている。子供の頃、友達同士の喋りかたをしていた従姉妹と、おとなになって疎遠になった今では、いつのまにかデスマス調になっている。こういう不自由感が日本語の嫌いなところだ。
私は、できることなら敬語は減らす方向に向かってほしいと思う。

ところが、TV を見ていると、「XXさんのご本を読ませていただきましたが」と、そこにいない著者にまで敬語を使っている。「〜させていただきます」の連発である。
出版社にフリーのライターがファックスを送るのに、「計3枚Faxを送ります」ではまずいそうで「計3枚Faxを送らせていただきます」と言わなければならないらしい。本当にばかばかしい。
どっちが身分的に高いか、暗に計っているのだ。身分制が少しずつ復活しているのかもしれない。
過剰な敬語は、この時代の日本の向かっている方向とどこか重なりあっているようで、いい気持ちがしない。
[PR]

by keiorihara | 2013-08-12 17:51 | 日本語と英語 | Comments(4)