折原恵のニューヨーク写真日記 - New York Photo Diary by Kei Orihara

keiorihara.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:番外篇( 2 )


2017年 10月 30日

番外篇 * 愛しのシリア 1990 第1回

a0215638_11122133.jpg
スーク(市場)/アレッポ



日々、シリアの惨状をニュースで聞き、ユーチューブで瓦礫と化した町まちを見るにつけ、言葉にならない思いと、悲しみ、怒りが押し寄せる。

ISIS(アイシス/イスラム国)が首都と定めていたラッカが、シリア民主軍(SDF)という得たいのしれない軍隊によって陥落した。
街は爆撃で瓦礫の山、もう街として機能しないくらい完全に崩壊している。勝利側は、アメリカ軍の空爆、武器支援を受けた、クルド人が主体の混合反体制派(反アサド)グループといわれている。
アメリカが武器をふんだんに振りまいて育てたISISを、これまたアメリカの空爆支援を受けアメリカにふんだんに武器を振りまかれたテロリストグループが追い出した、というわけである。
ワシントンのシンクタンクはすぐに声明を出した。これでISISがいなくなったわけではない、むしろ世界中に広く深く散らばって、今後もテロとの戦いは続くのだ、と。
いつものように、いや、ますますと人びとに恐怖をばらまいている。


シリアを旅したのは1990年。
イラクのクウェート侵攻の直前だった。翌年湾岸戦争が始まっても、間違ってもシリアの国土が戦争に巻き込まれるとは夢にも思っていなかった。それほど静かで平和な国だった。

確かに、はじめてダマスカスの空港に降りた時は、さすがに中東、そしてロシアから軍事援助を受けて国境線を守っているのだからここはもしかして社会主義国? と思わせる入管等の態度にちょっと緊張したものだ。しかし町に入ったとたん、そんなことは忘れてすっかりのんびりした気分になった。

緊張関係のある5カ国(トルコ、イラク、ヨルダン、イスラエル、レバノン)との国境をもった国、というより、古代からの隊商の都市、シルクロードの最終地点であり、物や人の顔が東西文明の交易の歴史を物語っている心豊かな国、と言った方がいい。

ダマスカスに入ったのはちょうど正午のお祈りの時間。まさかコーランの声が拡声器をとおしてこんな大音声で街中に流れているとは思わなかった。
魔法のような旋律と絶妙な長い間合い。枯れたテノールの声が開け放した車の窓から熱風とともに飛び込んでくる。
風景がアラブに塗り込められる。
そして夜、ホテルのベッドに横たわっていると、窓の外から突然耳をつんざくスピーカー音。夜中の12時にありえないほどの大音響である。窓の外は闇。闇を覆い尽くすコーランの祈りの声。
やはりここはアラブ人の、まぎれもなくイスラムの国なのだと否応もなく思った。


a0215638_16535870.jpg

食堂/Damascus




a0215638_07501508.jpg

喫茶店かと思って入ったら何かの待合所のようだった/Damascus




a0215638_1654045.jpg
スーク/Damascus



a0215638_07501636.jpg
モダンなファッションの母親と伝統的な衣装の娘/Damascus



a0215638_11133743.jpg
スークから出た大通り/Damascus



a0215638_07501556.jpg
お店の裏口を入るといきなり笑顔/Damascus



a0215638_11133829.jpg
前だか後ろだかわからない婦人たち/Damascus



a0215638_11124722.jpg
打ち水をした裏通り/Damascus




a0215638_11124717.jpg
車から降りてきた家族/Damascus




a0215638_11124787.jpg
右側のようにコート姿の女性は多い/Damascus




a0215638_11133749.jpg
新市街の夕暮れ/Damascus



a0215638_07501567.jpg
織物屋の奥で/Damascus



なぜ、シリアはこんなことになったのか? なぜ、シリア国民はこんな悲惨な目に遭わなければならないのか?

アメリカ、および西欧の世界戦略を歴史を追ってたどっていくと、それは、ここ数年に始まったことではない。
CIAはシリア介入を1949年に開始した。



[PR]

by keiorihara | 2017-10-30 15:43 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 14日

番外篇ー津波被災地を旅して The extra issue-Travel to the tunami stricken area

a0215638_10202864.jpg
宮城県名取市


東日本大震災の被災地を、遅ればせながら訪ねた。一応カメラは持っていったがブログには載せないつもりでいた。
ニューヨークでの写真行為とはぜんぜん違うことに思えたし、だいいち、このブログのタイトルは「ニューヨーク写真日記」なのだから。
でも、なんだか、そのままにしていると落ち着かなく、先に進めない感じがつのる。
あまりにも遠いところに暮らし、マグニチュード9.0も経験せず、ネットのニュースやユーチューブだけで知った震災。震災1ヶ月目に帰国した時にまとめてテレビを見たが、やはり体感したかった。
そしてそれはとても大きな体験だった。
そこでこれは、またまた特別番外篇である。


a0215638_10194076.jpg
仙台市若林区
更地になった土地にポツンポツンと家が残っている。
左側の母屋は1階は筒抜けで、右側部分はすっかり無くなっている。
目に留まったのは2階の中央の窓にならぶいくつかの縫いぐるみ人形。窓は開けはなれて人の気配はないが、入り口の隅にプラスティックの盥と水タンクがおかれている。被災後に、この家の人はこの2階でしばらく暮らしていたのだろうか。しかし、いけどもいけどもコンビニひとつ残っていない。

a0215638_1021260.jpg
宮城県石巻市南浜町
実際に被災現場に立って思う。写真というのは、その奥行き、距離感、というものが写らない、ということ。この荒涼とした風景を伝えるには、360度の視界と、奥行きの写るカメラ(そんなものがあれば)が必要だと思う。
左側の建物には、大きな文字で「めだかの楽校」という看板が残っていた。高齢者のためのデイケア、リハビリセンターだった。

a0215638_6563812.jpg
石巻市門脇町
このあたりは洒落た店もある密集した住宅街だったようだ。
建物のために今まで見えなかっただろう小高い山を、どの更地からでも見ることができる。

a0215638_6574953.jpg
石巻市立門脇小学校
津波のあと、火災で燃えた校舎。

a0215638_73128.jpg
日和山公園より石巻市門脇町周辺をのぞむ。
ここには写っていないが、海からずっと離れた石巻市街地、市役所、商店街も全面的に浸水し、今はきれいに片付いていたが、ゴーストタウンのようだった。いくつかのホテル、居酒屋などはぼちぼちオープンしていて有り難かった。

a0215638_745671.jpg
宮城県女川町
女川街道から、市街地に入る。この町を襲った津波は15メートル。死者+不明者が945人(宮城県災害対策本部12/7)町人口の1割近い人が亡くなった。また家屋の全壊、半壊は7割にものぼる。

a0215638_753615.jpg
宮城県女川町
女川町立病院の丘から市街地をのぞむ。ここは低階層といえども鉄筋コンクリートビルの建ち並ぶにぎやかな市街地だった。15mの津波は谷の奥2キロ以上を襲い、町は壊滅的な被害を受けた。
左手に見える建物は、水産と観光の町、女川町の観光物産販売施設「マリンパル女川」
新しいモダンなビルは堅牢だったが、1メートル以上の地盤沈下のため冠水を繰り返している。(ちなみに女川原発はここから車で25分の半島の突端)


石巻市で、友人の教え子である若い女性に会った。
震災直後から9月まで、ボランティアとして東京から通った。
がれき撤去、悪臭を放つヘドロ除去、それが最初のボランティアの仕事。
不明者がいる以上、重機でがれきを掘り返すことはできない。重労働である。ことに小柄な彼女のこと、たいへんな作業だったと思う。
そのうち、NPO「石巻災害復興支援協議会」で会計ができる人をさがしていて、
彼女が東京の会計事務所に勤めている人だと知られ、声がかかった。ここで働いてくれないかと。
一にも二にも無く返事をした。東京の住居を引き払い、石巻の住人になった。
彼女をこんなにも引きつける、ボランティアとその組織での仕事の面白さは、『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』(朝日新書) を読めば納得できる。
ここには自治体の穴を埋めるボランティアではなく、行政と対等に、あるいは復興の主体となって人を組織し、行政と連携して働いたボランティア組織の大きな存在があった。4000人近い死者+行方不明者を出した石巻市は人口16万人、全国から半年で延べ10万人のボランティアを受け入れたという。

震災直後の気が遠くなるような瓦礫の山を思い起こすと、この見事に片付いた更地の風景は、震災の爪痕の大きさを示すよりもすでに、再生の道を歩む人びとの、その力の大きさを感じさせてくれるものだった。
[PR]

by keiorihara | 2012-02-14 04:01 | 番外篇 | Trackback | Comments(0)