折原恵のニューヨーク写真日記 - New York Photo Diary by Kei Orihara

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2012年 12月 31日

日本のイジメ体質

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 Romanian Garden, Restaurant in Sunnyside ルーマニアン レストランの猫


日本に帰ると、かならずイジメの話を聞く。テレビのニュースで、子どもが死に、学校が隠し、教育委員会がごまかし、警察が捜査しない、そんないきさつを、大人も子どもも毎日見せつけられている。
アメリカで知り合ったアメリカ人の友達が、日本に住んで、英語教師として入った日本の会社でひどいイジメにあった話。
禅の修行をして得度をしたアメリカ人の坊さんが、日本の禅寺でイジメと差別の毎日を送った話。

日本の集団社会というのは、軍隊なのだとつくづく思う。
小学校で 「前ニィ ナラエ!」 「ヤスメ!」 という、あの軍隊式の号令をいまだに教師がやっていると聞いて、あぜんとする。
上司が自分の鬱憤を弱いものに向ける。日本の軍隊がリンチを日常茶飯としていたのと同じ構図。
それがシステムになっているのが省庁だ。

省どうしの、部課どうしの競争と差別そして敵対。どこの課は花形だの、日陰者だの、突撃隊だの敗残兵だの、文部相時代どのように振る舞って来たかを書いた寺脇研著『官僚批判』(このタイトルは完全に詐欺で、正しくは官僚自賛。はい、無知な私は、クイーンズ図書館日本語コーナーで見つけて、だまされて読みました)を読んで、本当にうんざりした。
国家公務員はキャリアとノンキャリアに別れるけれど、寺脇研のような人はキャリア官僚と呼び、それは、専門知識など何もなく経験もない人間が、学歴とエリート意識だけで出世の道を歩む職業だ、というのがこの本を読むとわかる。
彼がラサール中高から東大を出た、ということをいかに後生大事にしているかということが、この本を読めばわかり、この人は「ゆとり教育」の提唱者だかで有名になったらしいが、子どものこと、教育のことなんか何も考えていないことも、この本を読めばよくわかる。
この人は、映画評論家として知られているらしいけれど、事務次官どころか局長にもなれなかった自分を、異端児だったから、と言って弁明せずにはおれないほど、うぬぼれと出世欲のつよい人で、なんだか、ゆとり教育も、大きな改革で出世の機会を作りたかっただけのような気がして、こんなやつのために、一般の若者たちが精神を骨抜きにされたようで、本当に怒りを覚えた。
ゆとり教育というのは、体のいい、格差教育なのだったと思う。ゆとりは非エリートのもの。彼にとって、ラサール、東大は絶対に価値を落としてはいけないものであるはずだ。

一番問題なのは、自分のエリート意識を全然自覚していないこと。
官僚批判、なんてリベラルのスタイルをとっているつもりが、じつはこの出世街道をのぼっていくシステムが、子どものころから勉強という競争をやって来た人間にとって、身に付いたやめられない競争システムであって、そこで登り詰めるはずだったのが上れなかった、つまり大好きな官僚制度なのに、裏切られてプライドが傷ついた、だから本を書いて、自分が異端だったから官僚を辞めたんだ、という弁解をしている。そのことに無自覚であること。

「霞ヶ関を占拠せよ」と私が言ってしまうのは、こういう学閥エリートのキャリアがになう省庁組織のあり方に、日本という国社会をいじめ体質にしている、その一端があると思うからだ。


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NY Lotto man in Sunnyside 宝くじのおじさん
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by keiorihara | 2012-12-31 03:24 | Queens | Comments(0)
2012年 12月 18日

ウィリアムズバーグ Williamsburg, Brooklyn

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ブルックリンのトレンディな街ウィリアムズバーグ周辺に行くと、どうしてもファッショナブルなお店や若者たちに目が行き、そのようなものを撮り始めると、何というかつまり、ニューヨークはトレンディでカッコいいものを撮り始めると際限がないのです。

この写真は、写真を撮ろうと思ってこの地域ウィリアムズバーグを歩いたわけではなく、用があって歩いたついでにシャッターを切ったものですが、ほんのちょっとの距離、わずかな時間で、荒手のアーティスティックな情景がどんどん撮れてしまう。
だから、なるべくファッショナブルやらトレンディな人たち、お店なんかを避けて、でも街の感触がわかる、そんなふうにシャッターを切っていました。

80年代のイーストビレッジのようなかっこ良さと似たものがあるのですが、ちょっと違う。そのころのイーストビレッジには、商業主義はほとんどなかったし、リッチな人や観光客など1人も歩いていなかった。
しかしここはもはや、家賃が安いから住みはじめたアーティストよりも、アーティストがいるから、ファッショナブルなお店があるから、どんなに高くてもこの辺に住みたい、といったトレンディ好きの人たちの町になっているような気がします。(実際、このあたりはマンハッタン並みに家賃が高い)

今では、クイーンズのあの平凡さ、フツーさ、貧しさ、なんかのほうが、わたしにとって新鮮なニューヨークで、シャッターを切る意欲を起こさせるものです。
かっこ悪いもの、というのはそんなに簡単じゃないからです。
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by keiorihara | 2012-12-18 01:32 | Brooklyn | Comments(1)
2012年 12月 02日

写真とキャプション  Subway Station  &  School

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写真を一つ一つゆっくり見てもらおうと、写真一枚ずつにキャプションを書いてきたましたが、書いた言葉が、こちらが撮影した意図や気持ちと外れていることも多く、この内容ではちょっと違うのだけれど、何も書かないのは不親切のような気がして、というわけでキャプションを書いてきました。

写っている対象を見てほしい写真の場合、わたしは写真のすみずみまで見てほしいと思い、キャプションを読んだらもう一度写真に目が行くようにと言葉を書いてきました。
1枚の写真を楽しむには、見る人の経験や知識や想像力が必要です。このブログのクーンズの写真で言えば、世界の国々をたくさん旅している人や、その土地を知っている人、民俗や文化によく通じている人、本を読んで知識のある人、そういう人が写真を見て受け取るものと、そうでない人では、受け取り方がぜんぜんちがいます。ヒスパニックの人たちを撮っていても、日常的にそういう人たちを見ていなければ、写真を見る人たちは、気づかないかもしれません。建築物の装飾が面白いと思って撮っても、それがどういう時代のどのような建築様式に依拠したものかがわかって、それゆえに写真が面白く見える人もいれば、写真を見ても、ただ日本じゃないところのなんだかわからない風景としか思わない人もいます。言葉は、写真をより楽しむために、だから必要だと思うのです。
 
ベトナム戦争を取材していて地雷を踏んで亡くなった沢田教一という報道写真家がいました。死後に出版された『SAWADA』という大判グラフ誌サイズの写真集を見ていて、1枚のモノクロ写真に目が釘付けになったことがあります。
見開き2ページに大きく載った写真なので、細部まで見て取れる写真なのですが、”ベトナムの子供たちにクリスマスプレゼントを贈る米軍兵士たち” といった ”平和的な” キャプションがありました。誰がキャプションをつけたのかはわかりませんでしたが、新聞か写真グラフ誌に掲載されたものだったと記憶しています。
山地の、黒っぽい貧しい着物風の衣装を着た少数民族の村、かなり奥地の感じがする場所です。
ニヤニヤした大きな米兵たちの前に、黙って列を作っている浮かぬ顔の幼児、子供たち。それを遠くから取り巻いて見守る悲しげな暗い顔をした親たち。
で、配っているモノをよく見ると、、、何と、トウモロコシの芯をニスで固めて作った煙草のコーンパイプ。これは私がアメリカの南部を旅したときに、どこの土産物屋でも見た、安物の、誰がこんなものを買うかといったシロモノなのでよく覚えています。それに筆立て。状差し。
鉛筆など握ったこともないような子たちに筆立て?  鉛筆ではないのです。それに手紙の意味もわからないだろうに状差し? それにパイプ!
田舎の土産物屋で売れずに、段ボール箱で倉庫に山積みになっていたものだか、倒産ものだかを、そのまま持って来たのであろう、人をバカにしすぎている、死ぬほど心のこもらないプレゼント。
今でこそ、この1枚の写真は、ベトナム戦争の本質を物語っているように思いますが、その当時はきっと、ベトナムのアメリカ軍は、マスメディアの上ではまだ平和の使者だったのでしょう。アメリカのやる戦争は、ベトナムで負けるまで、常に正義の戦争だったからです。私が高校生のときに、この写真を見ていたら、どう感じただろうか、気がつかなかっただろうかと、90年代にこれを見て思ったものでした。

写真というのは、見る人が知っていることしか見れないものです。
言葉のない写真を見たときに、写真を見る人ができる認識は、その人がすでに知っている認識の範囲内であり、すでに知っている知識内であり、一人一人の思想や歴史に基づくものであり、それらを総合した感覚によるものです。つまり、言葉のない1枚の写真があなたの知らないことを知らせてくれたり、認識を新たにさせてくれたり、新しいものの見方を指し示したり、そんなことは決して起こりえないことなのです。

そのことの認識の上で、わたしは言葉(タイトル、キャプション、文章)を書いているわけです。

もちろん、写真には、色が美しい、光が素晴らしい、それ以外の何ものでもない写真もあり、そんな感じでシャッターを押している写真もあります。そんな写真でも、グループ写真の1枚として、ついキャプションを書いてしまい、写真の見方を限定させてしまうこともあります。そこのところが、とても難しいと、いまだに考え込んでしまいます。

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by keiorihara | 2012-12-02 15:14 | Queens | Comments(1)