折原恵のニューヨーク写真日記 - New York Photo Diary by Kei Orihara

keiorihara.exblog.jp
ブログトップ

<   2013年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧


2013年 08月 29日

サニーサイドの夏2   Summer in Sunnyside2

a0215638_1334283.jpg



a0215638_13344017.jpg



a0215638_13333148.jpg



a0215638_1335535.jpg



a0215638_13321872.jpg

[PR]

by keiorihara | 2013-08-29 00:20 | Queens | Comments(0)
2013年 08月 19日

サニーサイドからエンパイアステイトビルを望む / 不自由な日本語2

a0215638_13354623.jpg

サニーサイドからエンパイアステイトビルを望む The Empire State Building, as viewed from Sunnyside

a0215638_16242043.jpg


<不自由な日本語  2>

ニューヨークに住み始めてまもなくのころ、ネットでおもしろい英語クラスを見つけて通った。
一人のベテラン英語教師が、NY市に申請して、市から給料の支払いを受けて成立させた独立無料クラス。
生徒は当然外国人ばかり常時20人くらい。教室はNPOが運営している教育プログラムの建物の一室を借りている。中庭を挟んでいるので風通しもよく、静かで抜群の環境である。
教師というのがなかなかのインテリで、社会問題、国際関係などからのトピックをかなり深く突っ込んで語り、そのあと、" How do you think?  Discuss! " と投げかける。生徒たちは近くに座った数人でグループを作り、その話題について議論をする。それがパターン。

その中に若い日本人の女性がいて、そのひととは頻繁に同じグループになり、いろんなことを英語で話した。
商社マンの夫の転勤で、彼女は会社をやめて一緒にニューヨークに来ていた。クラスの中では英語を話すように言われていたし、私たちもそれをよしとしていたので、休憩時間も、クラスの帰りに二人きりになっても英語で通していた。それはけっこう楽しい語らいだった。日本人同士だから、拙い英語で話していてもどんなニュアンスも伝わってしまうのだ。
社会問題にとどまらず、たとえば人間関係の心理的な話、夫婦関係や会社関係の話を英語ですると、とてもわかりやすく、英語自体が持つ論理力に助けられて、元商社勤めの若い人と、ほとんど同じレベルで人間関係、日本社会の話などができたのだ。つまり、とても頭の良い若者だった。

で、数ヶ月経ったある日の帰り道、日本の話をしていて、これは日本語で話したほうが早いと感じて、どちらからともなく自然に日本語に変換した。
ところが、そのとたんに若い日本人のクラスメートは、わたしにデスマス調で話し始めたのだ。
私はすごくショックだった。直前まで友達同士の会話をしていたはずのクラスメートから、突然、距離をとられたと感じた。

「そうよね、それって何々だよね」「ほんと、私もそう思う。それはこういうことじゃない?」という感じで、まったく平等な友達同士の会話をしていた、と思っていた(思い込んでいた)私は、日本語になったとたんに相手から「そうですよね。それは何々だからだと思うんですけど」という受け答えをされたのだ。
わたしはいつも通りの会話をしているのに、相手は私をかなり年上の人と見定め、デスマス調だけでなく敬語まで使って話されたのだ。このときの、あああ、何ということ、、、! という、夢から現実に突き落とされたような感じ、これは、経験したものでないとわからない感覚かもしれない。
私にとっては、まったく予期しない事件だった。
すごく寂しく感じた。私たちは友達だったのではないか。友達のように話してくれないと寂しくなっちゃう。私は彼女にそのことを正直に伝えた。
彼女は答えた。「いえ、わたしにとっては自然な日本語なんです。だって、ケイさんは年長者なんですから。そんなに意識する必要はないのじゃないかと思いますけど」と。確かに、それは正しいのだけど、、、

私は日本語でこうやって書いているし、「ニューヨーク写真日記」のブログを書き始めてから、いつも日本語が頭から離れなくなった。
日本語は脱力して話せる便利なよくできた言語だと思っている。日本語のいい加減さが好き、とも言える。当たり前である。日本語は私の母語であり母国語なのだから。それでもなお、日本語の嫌いなポイントは大きい。
それは、日本語が差別言語であること。

日本人同士が、いざ会話を始めるときには、瞬間的にというか無意識の領域かもしれないが、常に上下関係で話し方を変える。つまり、日本語の中には、つねに上下関係というものがある。
年上年下、上司部下、教師や聖職者や特別な役職の人、仕事上の関係とそうでない場合、近親の度合い、商売人と客、クライアントと請負い業者、、、昔は夫と妻、姑と嫁、と、際限なく、どちらが上かで話し方が変わる。その特別筆頭に皇室があるが。

私は相当に敬語が苦手で、敬語を使わずにすむなら、そうしてしまう礼儀知らずの人間である。
そういう私も、親しくない、あるいは社会的関係の人には年齢を問わずデスマス調を使うし、5歳よりもっと上の人と話す時は、どんなにいろんなことを話せる友情を感じる人でも、どうしても敬語になっている。
でも、時々、この人とはただ自由な友達関係なのだからデスマス調じゃないほうがいいなあ、と感じることがある。
でも、そう思っているのに自由になれない自分がいる。それは半分は自分のせいだけど、半分は日本語自体のせいである。
[PR]

by keiorihara | 2013-08-19 23:23 | 日本語と英語 | Comments(4)
2013年 08月 12日

サニーサイド の夏  Summer in Sunnyside/不自由な日本語1

a0215638_13443748.jpg
ルーマ二ア人とおぼしき老婦人


a0215638_134472.jpg
スペイン語で話したり英語で話したり。コーヒーショップの前のベンチで。


a0215638_13433377.jpg
サニーサイドガーデンの一角


<不自由な日本語 1>

夫の甥の結婚式にワシントン州に行ってきた。 
式場はシアトル沖に点在する島の中のリゾートで、皆のんびりと休暇をとってやって来た。
海を背景にセレモニーを外で無宗教でやるのが流行っているようだ。

本人たちはコロラドに住んでいるので、長野に住んでいる人たちが瀬戸内海の小島の別荘地でウェディングをやるって感じだろうか。友達も含め、ほとんどの人たちが飛行機に乗リフェリーに乗り、やって来るわけだ。そのせいか、行事は2日にわたっていて、前日は家族が泊まっているホテルの庭でライヴコンサート付きのパーティ、翌日は式場のまわりの庭で長いパーティタイムがあった。総勢90名くらい。

で、次から次に紹介されたり、自己紹介し合ったり。
久しぶりの人も初めて紹介された人も、頬を右左にくっつけて挨拶をする。
そして力一杯抱きしめて、再会を喜ぶ。親戚の場合、これは良いなあと思う。お義父さんが生きていた頃、会うたびに心から抱きしめてくれた。
よくも息子と一緒になってくれた、という感謝の気持ちも、私を気に入ってくれているという気持ちも、十分伝わった。
身体を寄せるのは気持ちの伝達にとても良い。日本人は親子の間でさえ身体を触れることがない。儒教のせいだ。

そして英語というのは社交の場では、とくに良いものだなあと思う。
十代や二十代の若い子が、まったく臆せず五十代や六十代の大人と、完全に平等な態度で話をしている。
敬語がないということは、どんなにか自由なことかと思う。子供に対しても、年配者に対しても、話す言葉は最初から最後まで同じ言葉だ。
これは特に、子供の自由と自立を促す。

若者たちはいつもの仲間とのスラング続発の喋りかたではないにしても、年上だからって身構えたリ、返事が少なめになったりしない。
敬語がないことは社交を容易にしていると思う。もちろん、幼い頃から社会性を親が訓練するアメリカだから、言葉の問題ではないかもしれない。
しかし、若い日本人にとっては容易でないはず。

甥、姪にとって、こちらはおじさん、おばさん。日本でこの関係は、まず言葉で自由を奪われる。身内で近い関係にも関わらず、年上なのでタメ口をきくことをためらってしまう。
これは言葉の問題だけでなく、身分制度の問題もあるだろう。子供が自分を年少者として位置付け、年上の人間に対して距離をとる、という儒教的な身分観である。
たしかに私が子どものころ、遠くの地方に住む母の兄つまり伯父に、、どのように話していいかわからず、デスマス調か友達調か迷い、とても不自由を感じたことを覚えている。子供の頃、友達同士の喋りかたをしていた従姉妹と、おとなになって疎遠になった今では、いつのまにかデスマス調になっている。こういう不自由感が日本語の嫌いなところだ。
私は、できることなら敬語は減らす方向に向かってほしいと思う。

ところが、TV を見ていると、「XXさんのご本を読ませていただきましたが」と、そこにいない著者にまで敬語を使っている。「〜させていただきます」の連発である。
出版社にフリーのライターがファックスを送るのに、「計3枚Faxを送ります」ではまずいそうで「計3枚Faxを送らせていただきます」と言わなければならないらしい。本当にばかばかしい。
どっちが身分的に高いか、暗に計っているのだ。身分制が少しずつ復活しているのかもしれない。
過剰な敬語は、この時代の日本の向かっている方向とどこか重なりあっているようで、いい気持ちがしない。
[PR]

by keiorihara | 2013-08-12 17:51 | 日本語と英語 | Comments(4)